学び

 

香の種類
 一般的に香木の代表が沈水香木と呼ばれるもので、その最上品を伽羅といいます。香の世界で現在もちいられている香は、伽羅(きゃら)、羅国(らこく)、真南蛮(まなばん)、真奈伽(まなか)、佐曽羅(さそら)、寸門多羅(すもんたら)、新伽羅(しんきゃら)の七種です。昔は初めの四種だけでしたが、のちに二種が加えられて六種になり、これを六国列香(りっこくれっこう)などといいました。そののちさらに新伽羅の一種が加えられて七種となりました。現在香道でもちいるのは、この七種の香木に限定されています。

 これらの香木の名称を木所(きどころ)といいます。六国の伝などというところからも察せられるように、その名はそれを産出した国の名や地方の名であったらしいのです。マラッカやスマトラなど、その原産地はインドや東南アジアです。残念ながら日本にも中国にも産出しません。

 これら七種の香木を焚くと、それぞれ特有な強いかおりを発します。その特有な香気を聞きわけるのが、香道の第一歩です。この七種以外に香木がないわけではありませんが、どうしても格段にこれに劣るということで、香道でもちいるのはこの七種に限定されています。

 たった七種ですから、その特徴をおぼえていて判別するくらいなんでもなさそうに思えますが、じっさいは同一種の香木のうちにも、香りの濃密さや持続時間などかなりの相違があります。できるだけ機会多くこれらの香木のかおりに触れて、経験的に分類法を体得していくことが、香道の修道法なのです。
香の銘
  香道でもちいる香木は以上の七種ですが、その同一種類の香木のなかでも産出される地方や輸入された時代の相違、さらに微妙な種々の特徴によって、かなりことなった香気を発します。そこで、それらのいちいちに、固有の名前がつけられています。それが香の銘なのです。

 ところで、その銘香の由来についてもさまざまないわれが伝えられています。たとえば「東大寺」「法隆寺」「園城寺」などという銘香は、その香木の昔の出所がそのまま香の銘になったようですし、「縮黒」「紅塵」「白雲」などという銘香は、その香木の色つやや状況からつけられたものらしいのです。また詩歌銘といって、「柴舟」「春風」「乙女」などという銘香、草花銘といって、「夕顔」「秋蘭」「すみれ」などという銘香もあります。そのほかに、故実からきた「太子」「蘭奢待(らんじゃたい)」「吐月」、また姓字から「楊貴妃」「中川」「清水」などという銘香もあります。また、柴舟という銘香には、別の人が「初音」「白菊」「藤袴」という銘も付いていて、一木四銘の銘香といわれています。同一の香木を京都の御所と前田家、細川家、伊達家で分けあったとき、それぞれに銘をつけたからだといいつたえられています。

 そのほかに、「春山風」「白雲」「蝉の羽衣」などは、勅命香といわれます。後陽成天皇や後水尾天皇がつけた銘で、家元宗匠らによって大事に秘蔵されています。
 有名な蘭奢待は、正倉院の御物で、1.54メートルもある大きな伽羅香木ですが、これから香を切り取ったのは、足利義政と織田信長とそして明治天皇が著名です。織田信長がこれを切ったということが歴史上に有名なのですが、実際に切り取ったのはわずかな量で、しかも信長はそれを三分して、三分の一だけを自分のものにし、あとの三分の二を天下の大名小名に分けたといいます。名香の香木はこんなにも大事にされているのです。
香道の流派
 香道の主なる流派としては、御家流(おいえりゅう)と志野流とがあります。


 鎌倉時代に宮中や京都の公卿の生活状況がにわかに変化して、平安朝のみやびやかな文化がおとろえ、香を味わい楽しむなどということもすたれてきました。ことに建武の中興からのち、うちつづく戦塵のうちに、そのゆとりはいよいよ失われていきました。それでも宮中でだけは、折々に香を聞く催しが行われていました。公卿の多くが戦火を避けて地方に都落ちしてしまったあと、残された少数の公卿たちにより、天皇を中心に、歌とか詩とか香といったものが奉仕されていました。香道の御家流の始祖だといわれる三條西実隆も、こうした公卿のうちの一人でした。宮中の御香所預りという役に任命されていました。

 これら貴族社会で伝統的に楽しまれていたのは、もっぱら薫物(たきもの)で、その調合法はそれぞれの家に秘法として伝えられたものでした。

 これに対し、やがて室町幕府でも香を聞く会がさかんに催されるようになりました。この頃より中国から安定的に供給されていた香木を、調合せず天然の贈物である香木を純粋に鑑賞するのです。とくに好んでこれを催したのが将軍足利義政です。

 その以前、応仁の乱で、人心が極度にまで悪化し、心あるものは世をのがれて山野にかくれてしまいました。そのころ、将軍義政の近衆だった志野宗信もまたその一人で、職を捨て、宗砥法師や牡丹花尚粕や大褐禅師や村田珠光らを風流の友として、茶を喫したり香を聞いたりして、ひそかに風雅の道を楽しんでいました。

 そしてのちにまた義政に仕えることになったとき、将軍義政にも茶や香や連歌をすすめ、険悪な世相のなかに一脈の温雅な思想を注入しようとしました。義政もこれを喜んで、宗信に香を、珠光に茶を、それぞれ専門に研究させました。

 そこで宗信は、古来の香式を学び、旧来の方式を改めて、新しい香道の方式を定めました。これとならんで、珠光は茶道の方式を確立しました。そして香道と茶道がならんで流行することになったのです。

 香道の道具や作法が今日に見られるようなものにまでととのうのは、徳川時代まで待たねばなりません。けれども、その源をさかのぼって、三條西家で行われていたものを御家流とよび、とくに志野家で行われていたものを志野流といっているのです。

 そのほかの流派や家元は、みなこの二流からわかれたものなのです。