香道の歴史をみると、日本で香が使われだしたのは奈良朝です。東大寺や法隆寺など奈良の大寺院では盛んにこれが使われていました。つまり香は仏教とともに我が国に伝えられて、仏教とともに広まったと言えます。
そしてその芳香が尊ばれて、やがて宮中でも用いられ、次第に香の需要が増し、仁明天皇の御代には、宮中に御香所というものが設けられることになりました。
平安朝の初めには、すでに貴族の生活には欠くことのできないものにまで普及しましたが、残念なことには、香木は日本では産出しません。すべてインドや南方諸地方の特産で、平安時代には諸大寺や宮中で保存していたもの以外に、貴族らも競って香木を入手しようと努力しました。そして自分の使用料としたほか、最も貴重な贈答品にされました。
奈良朝のそれはいわば供え香で、仏事を荘厳にすることが目的でした。それが平安朝になって、宮中や貴族の生活の風雅として世に広まり、貴人一人一人が独自の香を調合することも行われるようになりました。こうした香の使い方を供え香に対して薫物(たきもの)といい、室内に空焚き(からだき)にしたり、衣服に焚き染めたりして用いました。つまり、香ははじめ奈良朝にはもっぱら宗教的な儀式に用いられ、つぎの平安朝になって教養的日用品となり、やがて儀礼的・芸術的なものが整えられるようになったのです。
武家の台頭によって、香は新たな芸道として確立の道をたどります。いわゆる足利八代将軍義政をリーダーとする東山文化のなかで、それを取り巻く文化人たちによって香木の観賞を中心とした新たな香文化が誕生するのです。後に「香道」に成長する新たな文化体系は、江戸時代に入り、現代にみられる香作法の基盤がほぼ完成し、武家社会の中に浸透し、家元制度も確立されたのです。十八世紀になると香道人口は急激に増大し、特別な階級だけでなく、武士、町人、さらには農民層まで広がり、文化文政期には女性層をも取り込み、料理、裁縫、茶道などと並び、身につける教養のひとつにまでなったのです。
そして明治維新の文明開化ムードの中で香道は大きな危機を迎えましたが、この困難な時期を乗り越え、再び蘇生することになり、近年の香りブームの中で高尚な伝統文化として香道は再び見直されているのです。